スマホRPGの「自動戦闘」を巡る賛否。導入せざるを得ない本質的な理由とその課題

自動戦闘があって当然に
オンラインRPGにおける「自動狩り」「自動戦闘」は、昔であれば不正なマクロやアドオンと判断されかねないものだったが、今やモバイルオンラインRPGがシステムとして実装するのが「標準」になった。ゲーム業界は基本的にユーザーが拒絶するような要素は排除する。
しかし、自動戦闘は当初はゲーマーから非難されたが、昨今では排除されるどころかむしろ重要なものとなった。
ゲーマーの自動戦闘への認識も段階を経て変化していった。
最初は「自動で狩りをするのがゲームと呼べるのか?」だったのが、「時間がないのなら自動狩りくらい仕方ない」となり、ついには「自動狩りがないゲームはやってられない」と言われるほどになった。
現在のゲーム業界の真理に近い流れの一つは「楽な方向に変化していく」というものだ。
似たジャンルの同じようなシステムのゲームがたくさんある近年では、ユーザーが数多くの選択肢に直面しており、より簡単で、より便利で、より面白いゲームを探すのが自然な流れだ。
ゲーム内の便利な機能はオンラインゲーム市場での競争力となる。
World of Warcraftがシステムを整理したり、スキルを統合したりするのも、利便性向上のためである。
自動戦闘もまた同じで、快適さを増大させるためのシステムだと解釈できるが、ゲームの利便性を極限まで引き上げた一方で、ゲームで犠牲にしてはならない要素である「操作」の部分を消してしまった。
特に日本・韓国・中国のモバイルゲーム市場で人気のゲームは、RPGでなくともRPG的な成長要素を備えていることが多い。このジャンルの特性が自動戦闘のような利便性の急激な向上をせざるをえない要因となった。
スマホRPGでは「過程」が障害になる
RPGの楽しさには2つの大きな軸がある1つはレベルを上げたり装備を強化するキャラクターの「成長」、もう1つは強くなったキャラクターを使って「活躍」すること。
成長は「過程」であり、活躍は「結果」である。
昔のPC向けオンラインRPGは誰もが強さを手に入れることができなかった。
より多くの時間を費やしたプレイヤーだけが強さを手にでき、強さは努力の証だった。
しかし、スマートフォンというプラットフォームでは、成長過程が一つの障害になった。
スマートフォンのタッチパネルだけでキャラクターを自在に操作するのは不可能で、多くの開発会社は操作のプロセスを簡素化することにした。
PCでは多数のキーとマウスを駆使して操作していたオンラインRPGは、ほんの数個の仮想ボタンだけで操作できるほど単純化され、キャラクターを自在にコントロールすることの楽しさは減少した。
また、プレイスタイルも短時間のログインと即興的なゲームプレイに変化した。
ゲームをするために時間を確保して、PCの前にじっくりと腰を据えなければならなかったPCオンラインRPGとは異なり、スマートフォンゲームは簡単に接続でき、簡単にゲームをやめることが可能となった。
オンラインRPGのメインユーザーが余暇時間の多い学生や主婦が中心だった昔とは異なり、あらゆるユーザー層に広まったのが今のオンラインRPGだ。
自動戦闘は、現代のモバイル市場の「大衆ジャンル」の特異性と、プラットフォームの限界、スマートフォンゲームのプレイスタイルが複合的に作用して出来た副産物である。
自動戦闘は、過程と結果の中で、昔とは異なり楽しさが減った「過程」を最小限に抑えて、他の楽しい要素である「結果」に集中するためのデザインである。
オンラインRPG本来の面白さをそのまま感じることはできないが、少なくともキャラクターが成長して強くなる事から得られる喜びは感じられる。
開発会社は変化の激しいモバイルゲーム市場でも有意なDAUと売り上げを達成でき、ユーザーは忙しい日常の中でも楽しさを見つけ出すことができる。
開発会社とユーザーの両方のニーズを「自動戦闘」が満たし、今日の多くのモバイルゲームで目にするシステムとなった。
しかし、自動戦闘に否定的な意見も少なくない。
自動戦闘によって、ゲームが「すること」から、「見ること」に変わってしまったためだ。
ゲームプレイのほとんどはキャラクターが1人で狩りをすることに焦点が当てられ、プレイヤーの仕事は時々ポーションを補充し、装備を交換し、ステータスポイントを割り振ることくらいだ。
意思決定が限りなく0に
過去に、シムシティの生みの親であるウィル・ライトはゲームを次のように定義している。「十分な情報の下に行われる意思決定であり、プレイヤーが与えられたリソースを管理しながら、自ら参加して目の前の障害物を乗り越えて目標達成に向かうこと」
かつてゲーマーはゲームをしながら数え切れない程たくさんのことを決めてきた。
一瞬一瞬が選択の連続で、その選択に伴う結果を見て、より良い方法を探し、満足を得ていた。
しかし、メディアの発達によって「定石」と「攻略法」が生じた。
これによってプレイヤーの選択肢は減り、自動戦闘の登場で限りなくゼロになった。
自動戦闘が歓迎されない理由の一つは、これまでのゲームシステムの進化の方向性と比べた時にあまりにも不自然だからである。
ゲームの進化は、既存のものに変化を加えたり、既存の要素を集めて新たなものを作り出すことで行われてきたが、自動戦闘は新たなものを何も生み出していない。
強くなったキャラクターを眺めるというのは既存のRPGでも出来た事で、自動戦闘は楽しさを感じられるようになるまでの過程を短縮させただけで新しい何かを生み出したわけではなかった。
むしろ、成長のための努力と、その過程でプレイヤーが経験する意思決定のプロセスを奪ってしまった。
自動戦闘の導入は進化ではなく「逃避」に近い
成功の方程式から逸脱してモバイルプラットフォームの限界を超えるための何かを構想するのではなく、安全な道を選んでそこから逃げてしまった結果が自動戦闘である。
自動戦闘が終着点になってはならない
自動戦闘だとわかっていても成長するキャラクターに楽しさを感じるプレイヤーは確かに存在している。自動戦闘システムはある程度楽しさの本質にも触れているが、一部のユーザーが求めている楽しさを包み隠さず露骨に表現したシステムでもある。
自動戦闘がシステム的に存在しなかった時代でも、マクロを使って自動で戦闘をさせたり、育成を代行業者に依頼することをしていたプレイヤーもいた。
速い成長、他人よりも強いキャラクターを望むプレイヤーはいつの時代もおり、時には一線を超えてもこの楽しさを追求する者もいた。
自動戦闘を一方的に批判できないのは、自動戦闘のようなシステムを欲したプレイヤーは昔からいたからである。
しかし、業界がこの自動戦闘をオンラインゲームが踏むべき当然の手順のように考えていることは憂慮しなければならない。
迅速かつ簡単に強くなる道を望むゲーマーは多いが、あらゆるゲーマーがそのようなわけではない。ゲーマーの経験はますます広がっており、「ゲームの楽しみ方」はとても多様である。
一線を超えてまで迅速に強くなりたい人もいれば、線の中で自分だけのプレイスタイルを作っていくことをゲームの真の楽しさとする人も多い。様々なプレイヤーがいる状況で、自動戦闘の導入は最初からこの線を消してしまったようなものだ。
ゲーム業界は継続的に新しい楽しさを創出するための工夫をしなければならない。たとえ自動狩りが多くのプレイヤーを満足させているとしても、望ましい発展の方向と考えるのは難しい。
モバイルゲームの自動戦闘を「悪」とすることはできない。ニーズを満たして派生した結果なだけで、間違ったことではないからだ。
しかし、自動戦闘が終着点になってはならない。
自動戦闘は、これからもっと優れたゲームが登場する過程で、ゲームが新たな飛躍をする前の「踏み台」にするべきである。踏み台にしばらく立っていることはできるが、踏み台に永遠と居続けることはできない。
より良い物が作られる前の、過渡期の副産物。我々は自動戦闘をそのように認識するべきである。
引用元:inven